名倉達了
有機的な曲線を描くふちは、雄大に広がる大地の稜線を。
なめらかな黒の世界に光が反射する様子は、日が昇りまた沈んでいく大地の風景のように。
それは、深みのある造形として、目前に現れる。
作品に向き合っていると、なにか詩的な、心閑な世界にたたずんでいるような心地がしてくる。
名倉達了は、現代における硯の存在意義を問いなおし、その新たな役割を探求するアーティストである。それゆえに、私たちが見慣れてきた硯との違いが、造形としてはっきりと表れている。
名倉は、120年続く硯づくりの家系に生まれた。
代々が伝統の更新に挑んできたその意思を引き継いで、彼もまたふたつの課題と向き合っている。
そのひとつは、和硯の多くが芸術品として顧みられてこなかったという、歴史的事実である。
和硯それ自体に芸術的価値を与えようとする動きは、半世紀ほど前より始まっているものの、この活動はまだ広く知られてはいない。
古来より多種多様な造形的変遷を経た硯には、墨をする場を「陸」や「丘」、水が溜まる場を「海」や「池」と呼ぶ形式と文化がある。
また先人たちは、石に浮かび上がる模様を、雲や星などに見立てきた。
思えば石とは、私たちが立つ足元でもあり、夜空遠くにきらめく星々でもある。
手のひらほどの小さな硯に、人々は世界を見、想いを馳せてきたのだ。
名倉の硯から連想される美しい風景は、この形式と文化の上に成り立っている。
自身の彫刻家としての活動も下地に、現代的な鑑賞にも堪えうる普遍的な美を、和硯に付与しているのだ。
そして名倉が取り組むもうひとつの課題は、ライフイフスタイルの変化に伴う「用」としての硯の終焉である。
現代に生きる私たちの多くは、もう日常において、筆を使って文字を書かなくなった。
ゆえに名倉は、日常の道具としての「文具」から硯を開放し、その役割を押し広げる。
モノや情報があふれる現代。
人々が大切なものを見失わずに、本当の意味で豊かに人生を送るために必要なものとは、なんだろうか。それは、日々の喧騒から離れ、自らに向き合う時間ではないか。
墨をすり、香りや音を感じ、石という素材と触れ合う。
硯が「墨をする」という身体行為を伴うものであること、
そして、文字という人間に特有の、もっとも直接的な思考の表現に関わるものだからこそ、硯には心を静め、思考を整理するという適性があるはずだ。
慌ただしく進む日常から少し離れ、たったひとりの自身と「静寂」を得るひととき、
目に見えるもの以上の世界を想像するゆとりこそ、
精神を健やかに、そして創造的にしていく。
名倉の硯は、シンプルだ。
しかしその背後に、雄弁に語られるべきものが潜んでいる。
なぜならそこには、気が遠くなるような歴史を負う「硯」の文化を受け継ぎながらも、新たな方途を拓こうと思考し続ける、一人のアーティストの真像が反映されているからだ。
名倉は、生きた「用」を担う、現代の硯の芸術品としての在り方を探求しつづけている。
B-OWND
有機的な曲線を描くふちは、雄大に広がる大地の稜線を。
なめらかな黒の世界に光が反射する様子は、日が昇りまた沈んでいく大地の風景のように。
それは、深みのある造形として、目前に現れる。
作品に向き合っていると、なにか詩的な、心閑な世界にたたずんでいるような心地がしてくる。
名倉達了は、現代における硯の存在意義を問いなおし、その新たな役割を探求するアーティストである。それゆえに、私たちが見慣れてきた硯との違いが、造形としてはっきりと表れている。
名倉は、120年続く硯づくりの家系に生まれた。
代々が伝統の更新に挑んできたその意思を引き継いで、彼もまたふたつの課題と向き合っている。
そのひとつは、和硯の多くが芸術品として顧みられてこなかったという、歴史的事実である。
和硯それ自体に芸術的価値を与えようとする動きは、半世紀ほど前より始まっているものの、この活動はまだ広く知られてはいない。
古来より多種多様な造形的変遷を経た硯には、墨をする場を「陸」や「丘」、水が溜まる場を「海」や「池」と呼ぶ形式と文化がある。
また先人たちは、石に浮かび上がる模様を、雲や星などに見立てきた。
思えば石とは、私たちが立つ足元でもあり、夜空遠くにきらめく星々でもある。
手のひらほどの小さな硯に、人々は世界を見、想いを馳せてきたのだ。
名倉の硯から連想される美しい風景は、この形式と文化の上に成り立っている。
自身の彫刻家としての活動も下地に、現代的な鑑賞にも堪えうる普遍的な美を、和硯に付与しているのだ。
そして名倉が取り組むもうひとつの課題は、ライフイフスタイルの変化に伴う「用」としての硯の終焉である。
現代に生きる私たちの多くは、もう日常において、筆を使って文字を書かなくなった。
ゆえに名倉は、日常の道具としての「文具」から硯を開放し、その役割を押し広げる。
モノや情報があふれる現代。
人々が大切なものを見失わずに、本当の意味で豊かに人生を送るために必要なものとは、なんだろうか。それは、日々の喧騒から離れ、自らに向き合う時間ではないか。
墨をすり、香りや音を感じ、石という素材と触れ合う。
硯が「墨をする」という身体行為を伴うものであること、
そして、文字という人間に特有の、もっとも直接的な思考の表現に関わるものだからこそ、硯には心を静め、思考を整理するという適性があるはずだ。
慌ただしく進む日常から少し離れ、たったひとりの自身と「静寂」を得るひととき、
目に見えるもの以上の世界を想像するゆとりこそ、
精神を健やかに、そして創造的にしていく。
名倉の硯は、シンプルだ。
しかしその背後に、雄弁に語られるべきものが潜んでいる。
なぜならそこには、気が遠くなるような歴史を負う「硯」の文化を受け継ぎながらも、新たな方途を拓こうと思考し続ける、一人のアーティストの真像が反映されているからだ。
名倉は、生きた「用」を担う、現代の硯の芸術品としての在り方を探求しつづけている。
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