加藤亮太郎
美濃焼の代表的な窯元である幸兵衛窯。 初代・加藤幸兵衛が1804年、美濃国多治見に開窯した。 その優美な染付食器は、まもなく江戸城本丸・西の丸の御用達となる。
加藤亮太郎は、七代目・加藤幸兵衛の息子として1974年に生まれた。 祖父である六代目・加藤卓男は幸兵衛と力を合わせ、数世紀前に途絶えていたペルシャのラスター彩の技法を復元するなどの業績で、重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
亮太郎は京都市立芸術大学大学院で陶芸家・秋山陽、書家・石川九楊に師事。2000年、家業の幸兵衛窯に入った。
穴窯に何日間も薪をくべ続ける。炉壁の向こう側は、1300度の炎に包まれた、有機物の存在を許さない〝死〟の世界。自分が立つこちら側は〝生〟の世界。その生死のわずかな狭間に立ちながら、炎の中から生まれ出ようとする茶碗に想いをはせる。
人の一生は、せいぜい100年。だが、やきものは生き永らえれば何百年も残り続ける。だからこそ、自分の愛情を、そして命を込めようと思う。
茶席で亭主が心を尽くして点てる茶は、主と客をつなぐ。茶碗は、その間をとりもつ重要な存在だ。茶碗は持ち主に愛され、伴侶として寄り添い、銘を付けられれば、不思議と人格が宿る。「人のような顔をするようになるんです」と、彼は言う。
美濃の地は、はるか桃山の時代に優れた陶工たちが百花繚乱と咲き競った聖地。生々流転。儚い命が、永遠なるものに包まれ、包み返していく。窯から取り出されるのは、加藤亮太郎の〝分身〟である。
B-OWND
美濃焼の代表的な窯元である幸兵衛窯。 初代・加藤幸兵衛が1804年、美濃国多治見に開窯した。 その優美な染付食器は、まもなく江戸城本丸・西の丸の御用達となる。
加藤亮太郎は、七代目・加藤幸兵衛の息子として1974年に生まれた。 祖父である六代目・加藤卓男は幸兵衛と力を合わせ、数世紀前に途絶えていたペルシャのラスター彩の技法を復元するなどの業績で、重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
亮太郎は京都市立芸術大学大学院で陶芸家・秋山陽、書家・石川九楊に師事。2000年、家業の幸兵衛窯に入った。
穴窯に何日間も薪をくべ続ける。炉壁の向こう側は、1300度の炎に包まれた、有機物の存在を許さない〝死〟の世界。自分が立つこちら側は〝生〟の世界。その生死のわずかな狭間に立ちながら、炎の中から生まれ出ようとする茶碗に想いをはせる。
人の一生は、せいぜい100年。だが、やきものは生き永らえれば何百年も残り続ける。だからこそ、自分の愛情を、そして命を込めようと思う。
茶席で亭主が心を尽くして点てる茶は、主と客をつなぐ。茶碗は、その間をとりもつ重要な存在だ。茶碗は持ち主に愛され、伴侶として寄り添い、銘を付けられれば、不思議と人格が宿る。「人のような顔をするようになるんです」と、彼は言う。
美濃の地は、はるか桃山の時代に優れた陶工たちが百花繚乱と咲き競った聖地。生々流転。儚い命が、永遠なるものに包まれ、包み返していく。窯から取り出されるのは、加藤亮太郎の〝分身〟である。
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