若宮隆志
漆芸家・若宮の作品に際立つのは、まず高度な精神性のメタファーだ。若宮は、このように考えているという。文明が科学力をもつまでの長い期間、自然は恵みであれ災厄であれ、およそコントロール不能なものとして人間の暮らしに立ちあらわれてきた。人々にとって、人生に降りかかる制御のかなわない出来事を乗り越えるツール。よりよく生きるための知恵をもたらすものが、たとえば信仰であった。
だが、科学の台頭と進歩は、いつしかあらゆるものを人間の意思によって操れるかのような驕った錯覚を蔓延させつつある。人間自身を含めたいのちや自然への畏敬は失われ、よりよく生きる知恵としての信仰も、日々の生活の中からは不在となった。
しかし、現実にはいかに科学が進歩しようとも、人は生老病死の苦を免れないし、自然の脅威の前には依然として無力に近い。若宮が試みようとしているのは、かつて人々が大切にしていた〝よりよく生きるための知恵〟を、漆工芸というかたちの中に再構成して提示することだ。研ぎ澄まされた意匠は、人々の意識とまなざしを、古人(いにしえびと)が感じとっていた世界へと導き、同時に現代の人々の暮らしのなかに復権させていくと、若宮は信じている。
若宮作品のもう一つの真骨頂は、最高峰の技術力の統合にある。彼が率いる「彦十蒔絵(ひこじゅうまきえ)」は、20人の漆のスペシャリストが集う職人集団。木地の制作などにはさらに多くの職人が従事する。その作品は、いずれの工程においても圧倒的な技術力を必要とするものである。
しかし一般的に、最高峰の技術をもった職人たちの手に行程が分化することは、工芸作品がコンセプトの自由を獲得することの障壁となるというジレンマを抱えてしまう。「彦十蒔絵」は、若宮がアーティストとして創作の道筋を示し、棟梁として職人たちの信頼を勝ち得ることで、作品のコンセプトの自由を獲得している。この創造性と技術力のチームワークは、工芸家の一つの理想的な姿を工芸界に示しているだろう。
B-OWND
漆芸家・若宮の作品に際立つのは、まず高度な精神性のメタファーだ。若宮は、このように考えているという。文明が科学力をもつまでの長い期間、自然は恵みであれ災厄であれ、およそコントロール不能なものとして人間の暮らしに立ちあらわれてきた。人々にとって、人生に降りかかる制御のかなわない出来事を乗り越えるツール。よりよく生きるための知恵をもたらすものが、たとえば信仰であった。
だが、科学の台頭と進歩は、いつしかあらゆるものを人間の意思によって操れるかのような驕った錯覚を蔓延させつつある。人間自身を含めたいのちや自然への畏敬は失われ、よりよく生きる知恵としての信仰も、日々の生活の中からは不在となった。
しかし、現実にはいかに科学が進歩しようとも、人は生老病死の苦を免れないし、自然の脅威の前には依然として無力に近い。若宮が試みようとしているのは、かつて人々が大切にしていた〝よりよく生きるための知恵〟を、漆工芸というかたちの中に再構成して提示することだ。研ぎ澄まされた意匠は、人々の意識とまなざしを、古人(いにしえびと)が感じとっていた世界へと導き、同時に現代の人々の暮らしのなかに復権させていくと、若宮は信じている。
若宮作品のもう一つの真骨頂は、最高峰の技術力の統合にある。彼が率いる「彦十蒔絵(ひこじゅうまきえ)」は、20人の漆のスペシャリストが集う職人集団。木地の制作などにはさらに多くの職人が従事する。その作品は、いずれの工程においても圧倒的な技術力を必要とするものである。
しかし一般的に、最高峰の技術をもった職人たちの手に行程が分化することは、工芸作品がコンセプトの自由を獲得することの障壁となるというジレンマを抱えてしまう。「彦十蒔絵」は、若宮がアーティストとして創作の道筋を示し、棟梁として職人たちの信頼を勝ち得ることで、作品のコンセプトの自由を獲得している。この創造性と技術力のチームワークは、工芸家の一つの理想的な姿を工芸界に示しているだろう。
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